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伊達政宗が「撫で斬り」を行った戦として、小手森城と佐沼城が有名であるが、この二つの撫で斬りは、その根本的な理由は異なるものと思える。ここではまず、小手森城の撫で斬りの理由を考えて見ることにする。結論を先に言えば、それは若さから来る「傲慢さ」と、周囲への「恐怖」だったろうと思う。

小手森城跡

 

政宗は、天正9年(1581)、15歳で初陣、相馬氏との戦いに勝利を収めた。この時の戦いで大器の片鱗を感じたのだろう、父輝宗は、まだ41歳と若かったが、この政宗の戦国武将としての資質を認め、天正12年(1584)18歳の政宗に伊達家の家督を譲った。

この当時の伊達氏は、天文の乱の影響もあり、かつては南奥羽の盟主としてその影響下においていた福島仙道地方の諸大名や、最上氏、相馬氏などは、すでに伊達の支配から離れていた。特に最上氏と相馬氏は時に伊達を脅かしていた。複雑に入り組んだ姻戚関係の中で、父輝宗はその温厚な人柄もあり、敵対する勢力にとどめを刺すまでには到っていなかった。戦国期とはいえ、同時代の関西と比べれば、それは妙に生ぬるい緊張感だった。ある意味で、伊達氏は見くびられていたといえる。

当時の伊達家内部は、政宗を家督にと考える勢力と、政宗の弟の小次郎を担ぎ出そうとする勢力があり、政宗の母であり、最上義光の妹である義姫は、小次郎を家督にと考えていたようだ。父の輝宗は、このような家中の空気を察し、この家督争いが表面化すれば、最上義光が介入してくる恐れを抱き、これを未然に制するために、若くして政宗に家督を譲ったとも言われている。

当時の伊達政宗は、父の輝宗が存命とはいえ、対外的には敵からも味方からも「値踏み」されていただろう。伊達を取り巻く最上や、葦名、佐竹などの大勢力はもちろん、周囲の小勢力も、天文の乱以降、勢力に翳りの見える伊達を見限るかどうかをうかがっていただろう。

また、伊達家中も、弟の小次郎を押す勢力はもちろん、伊達を支えてきた輝宗のまわりの老臣達も、若い政宗やその新しい若い幕閣達に対して暖かいものだけではなかったろう。

このような状況下で、政宗への臣従を一旦は明らかにした大内定綱が、二本松の畠山氏についた。大内定綱にしてみれば、遠く米沢にいるその器量の程も定かでない政宗に付くよりは、己の仙道支配の野望もあり畠山氏とくむことの方が得策と考えたと思われる。しかし値踏みされている当時の若き政宗にとっては、これは己の存在そのものに対する反逆であり、断固として許すことのできないものだったろう。

政宗の器量を高く評価し、その戦略を担っていたのは片倉小十郎景綱だった。すでに織田信長はなく、代わって豊臣秀吉がすでに政治的には全国統一を手中にしていた。軍事的に九州、四国、関東、東北に兵を向けることは遠いことではないと思っていたはずだ。秀吉が奥羽に兵を向けるまでの短い期間に、政宗による奥羽制圧を完成させることが小十郎の戦略だったと思われる。その第一歩として、山内定綱との戦は、圧倒的に勝たなければならないと思っていたはずだ。また、血縁関係が入り乱れ、ぬるま湯的なこれまでの馴れ合いの戦では、奥羽統一は果たせないとも思っていたはずだ。

小十郎と政宗のこの当時の戦略観は、敵と味方を峻別するといった、戦国期では当然のものだったと思う。それが生ぬるかったことで、奥羽は群雄割拠の時代を超えることができずに、中央勢力に飲み込まれようとしていると小十郎は考えていたと思う。

小手森城の後方には、大内定綱を支援する葦名、畠山、二階堂、佐竹などの援軍が陣を張っていた。負けるわけには行かなかった。政宗にとってこの戦に負けることは、伊達氏周辺の大小名の伊達からの離反を招き、伊達氏内部からもその存在を全否定される恐怖があったと思う。

城を守るのは大内氏一族の菊池氏だった。小十郎と政宗は「逆らうものは撫で斬りにする」旨を通告していた。敵と味方を峻別するためのものであることは当然として、伊達による「奥羽布武」の宣言でもあったろう。この時期に小十郎と政宗にとっては他の選択肢はなかっただろう。政宗による伊達の強い意思表示により、天文の乱以前は伊達の強い影響下にあった仙道地域は揺れたが、その多くは未知数の政宗に付くことはなかった。小十郎と政宗の若き「気負い」は、仙道地域の大小名たちから見くびられ、また彼らが政宗の器量を判断できる材料もなかった。

それでもこの地の石川弾正は伊達についた。大内定綱は驚き、小手森城に援兵を送り、菊池氏は大内氏を見限ることはなかった。それどころか、領民や女子供まで城内に入れ、徹底抗戦の構えを見せた。小十郎と政宗の、退くも地獄進むも地獄の「恐怖」を甘く見たとしか言いようがない。「撫で斬り」の舞台は出来上がってしまった。

大内定綱は、葦名、畠山、二階堂、佐竹などを後ろ盾に、適当な時期に、これまでのように「手打ち」できるものと思っていただろう。それは大内氏の背後の葦名氏や佐竹氏も同じだったろう。しかしこの戦いは、これまでの戦いの様子とは違っていた。政宗は一万に及ぶ軍勢を率い、数千丁の鉄砲を持ち込んでいた。戦いは圧倒的で激烈だった。緒戦はあっという間に伊達勢が勝利した。戦意を喪失した城方は、大内定綱の本拠城の小浜城に退去することを条件に開城することを申し出た。それは、これまでの奥羽の戦の生ぬるさに通じるものだった。小十郎と政宗はこれを許さなかった。この城の兵たちを小浜に入れれば、小浜城攻めにてこずり、葦名や佐竹が介入してくる。そうすれば伊達の勝ちはなくなり、これまで通りの「妥協」が成立してしまうことになる。

伊達勢は城山の麓に火をかけ総攻撃をかけた。城方にもはや戦う気力はなく、鎧を脱ぎ捨て、武器をかなぐり捨て我先に逃げ始めた。あとは一方的な殺戮だった。

この「小手森城の撫で斬り」は、南奥羽の大小名たちに衝撃を与え、奥羽は一気に流動化し始めた。この「撫で斬り」こそが、奥羽の地の遅すぎた本格的な戦国時代の幕開けだったと思う。

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