この 服部康成の出自は、少なくともネット上にある限りでははっきりしない。もちろん、実際には研究が進んでいるのかもしれないが、小説「蟠龍雲に沖いる」で取り上げた「論」の根拠らしきことを取り上げてみる。

服部康成は、関ヶ原の戦いの折に、忍びの心得があると言うことで為信に仕官し、大垣城攻めに功があり、家康から一字をもらい、長門守を受領したとある。

この、武将としての系譜も定かでない者が、ある日突然長門守を受領するということは、当時でも異例のことだったように思う。

服部で忍びと言えば、服部半蔵正成がおり、正成は家康に仕えて伊賀同心を支配し隠密組として組織し八千石を得ていた。この正成は関ヶ原の戦いの前、慶長元年(1596)に55歳で没している。その後は、長男の服部正就が継ぎ、関ヶ原の戦いに至る。

この服部正就の家督相続の時期は関ヶ原の前夜にあたり、服部一族が、間者として縦横に活躍した時期と思う。服部康成もこの時期に歴史の陰で活躍したのだろう。それも徳川家康の比較的近い位置にいたのではないだろうか。

弘前城周辺からの岩木山

 

ここでは、服部康成は、「成」の通字があることと、家康が、その一字を与えたことから、服部正成の男子と推測した。

関ヶ原の時期、徳川家康の懸念のひとつとして、石田三成と親交がある津軽の去就があっただろう。津軽為信の長子の信建は、秀頼の小姓として大阪城にあった。家康は、この懸念に対して、服部康成を為信の下に送り込んだのではないだろうか。結局津軽は、長子の信建は西軍に、三男の信牧は東軍につき、為信自身は日和見にまわったようだ。

戦後、家康は、津軽に対しては2千石の加増に留めながらも、この服部康成の功を大きく評価し、自分の一字を与えさらには長門守を与えた。これにより、津軽家中では否応無くこの服部康成を重く用いざるを得なくなる。実際、津軽為信はこの康成をその後重臣として遇した。これは暗黙のうちに津軽に大きなかせをはめたことになる。

当初は服部康成の津軽家中での立場は微妙なものだったろう。しかし、徳川の世が確固としたものになるにつれ、そして東軍についた信牧が家督を相続したことにより、康成の津軽における立場も固まったと思われる。

康成が服部家の中にあれば、恐らくはその名が歴史の上に現れることは無かっただろう。関ヶ原の謀略の中から、歴史の表に現れ、隠密から武将へと転換したことは、康成自身も不思議な運命を感じたことだろう。

 

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