南部政直は、盛岡南部の当主南部利直の次男。

長男  家直(経直)…福岡城主、16歳?で死去
次男  政直…花巻城主、1624年変死
三男  重直…南部藩当主
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庶長子の家直は16歳?で早死している。筆者はこれを、三男の重直を嫡子とすることによる南部の内紛を避けるために、毒殺、もしくは謀殺されたのではないかと考えているが、家直に関してはあまりにも資料が少なく、これ を断ずるには無理がある。

しかし、次男の政直の場合は、時代状況的には毒殺された可能性が強いと思う。政直の死に関しては、「変死」とか「非業の死」、としての記述が多いようだが、政直の治めていた花巻には、花巻の重役の柏山明助とともに「毒殺」 されたとする次のような説が伝わっている。

「江戸へ参府する途中花巻城に泊まった利直は、以前から伊達氏と通じている、との疑いのあった岩崎城代柏山明助を呼び、毒殺しようとした。このとき花巻城主政直が毒見の為に事情を知りながら毒入りの酒を飲む。その晩、政直と柏山は苦しみながら絶命した。利直はお家のためとはいえ、我が子を手にかけたことを大変悲しみ、政直の霊を弔うため、荼毘に付した跡地に「天厳山 宗青寺」を建立した」

筆者は、柏山明助と南部政直は切支丹か、あるいはそのシンパだったと考えている。その確かな資料はないが、南部政直の花巻と、柏山明助が城代を勤める岩崎は、その後の切支丹取締りのときの資料では多数の切支丹が捕縛されている。

この資料中には、花巻や岩崎の切支丹たちの多くが、伊達領水沢福原の後藤寿庵の「弟子」であることが記載されている。後藤寿庵はこの当時の日本の切支丹の中でも重きをなしていた者で、水沢福原には天主堂もあったと伝えられる。切支丹たちにとっては、藩境はあってなきに等しいもので、しげしげと藩境近くの福原に通ったことは想像にかたくない。

南部政直と柏山明助が切支丹であった場合、なんらかの形で伊達家臣の後藤寿庵と接触があったと考えるのが自然と思われる。花巻の伝承に見られる、

「以前から伊達氏と通じている」

のことは、柏山明助と後藤寿庵の切支丹としての交流であると考えられる。南部利直にすれば、このことも見逃せないものとして映ったのかもしれない。

1619年には京都大殉教がおき、これより切支丹に対する弾圧は一気に強くなる。1620年には、それまで切支丹に対しては比較的寛容な政策をとっていた伊達藩も切支丹弾圧に踏み切り、後藤寿庵は伊達藩を出奔、1622年には長崎大殉教、1623年には江戸大殉教と続く。1624年の南部政直と柏山明助の死は、この主従が切支丹であったことを示しているように思える。

この伝承で不思議なのは、主の南部政直が家臣の毒見をするということだ。これが真実とするならば、南部政直は、切支丹として柏山明助とは師弟関係にあったと考えるべきだろう。またあるいは、南部利直の「子殺し」に対して、領主に対する遠慮からトーンを弱めたと言うことかもしれない。

いずれにしても、恐らくは、南部政直と柏山明助は、南部利直によって毒殺されたと言うことは真実であろうと思われる。しかしながら、政直の幼名は、南部利直の幼名と同じ「彦九郎」であることから考えて、少なくとも 政直の生誕時には、利直の強い思い入れがあったに違いないと思われる。

この花巻の伝承にある最後のくだりの、

「利直はお家のためとはいえ、我が子を手にかけたことを大変悲しみ、政直の霊を弔うため、荼毘に付した跡地に「天厳山 宗青寺」を建立した」

というのは真実であったろうと思われるし、そう思いたいものだ。

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