盛岡藩の藩祖、南部利直は、 南部信直の嫡男として二十七代南部当主を継いだ。公式には、その生母は信直の後室として入った、泉山古康娘であると言われている。しかし、この説には異説がある。

南部信直は、南部一族の中の名将、石川高信の長男であるが、三戸南部の当主、南部晴政に男子がいなかったために、晴政の長女を妻とし、晴政の養嗣子となった。このとき信直は12、3歳であった。

当時の信直は、人の話をよく聞く聡明な少年であったらしい。当時の南部一族の期待の公子であったろうし、この婚姻は南部一族の誰にも祝福されたものだったろうと思う。

三戸南部は、北奥羽の雄として、秋田安藤氏と鹿角を巡り争い、また津軽為信ともことを構えており、信直は南部宗家の嗣子としてその名将振りを発揮していった。しかしその後、1570年、晴政に実子が誕生し、次第に信直は疎まれるようになった。

1572年には、信直は晴政から襲撃され、この辺りから晴政に対しては憎悪の念を持ち始めたとしても不思議ではない。利直の誕生の前に、この正室の晴政娘との間には長女が誕生しており、そして1576年に南部利直の誕生となる。

この正室は元来、体が丈夫ではなかったらしい。たびたび流産していたらしい。現在公式な説になっている「公国史」には、

天正四年平産す、一公女千代姫君これなり、これより前、度々流産有りて身大いに披忰せり、産後数月にして終に三戸に卒す」

長女の千代姫を産んだ後、その産後の肥立が悪く、三戸で亡くなったとなっている。また「南部利直公御事」には

「御母は御本家廿四代彦三郎晴政公の嫡女なり、御実母は同所泉山村の地人出雲の娘なり」

とあり、これは利直の生母は泉山古康娘で、正室としてある晴政娘が母となっている。

ところが、「信直公奥方平産の事」には、

天正四丙子年(一五七六)田子九郎信直公の室初て平産せられぬ、これより前度々懐服せられけれども月も満たず漏したまへしが、この度は目出度平産せられ、しかも男子を生しければ、その喜び大方ならず、屋形(晴政)も御喜び少なからず、すなわち七ケ日の枕には御子鶴千代殿を伴へ玉ひ、達戸の館へ御出有り、すなわち誕生の君を自ら抱かせられたまへ、名をば我等が遣すべし、すなわち彦の字を譲らん、父よりは九郎を相伝せよとて彦九郎と名付けたまふ、かつ成長の後は晴直と名乗るべしと宣いければ、信直を始め満座感に渡て喜びけり、上下萬民これを聞きて喜ばざると云ふ事なし、それより酒宴を儲け、幾の興を催し屋形はその日の暮に三戸へ帰城したまふ、然るに信直の室には産後朦々として一日も快(こころよか)からず数月を脳やまれけるに薬術・神呪のしるしなく終に世をはかなく去りたまふ、

三戸城城山

ここでは、明らかに南部利直の生母は晴政娘であると言っている。晴政娘の死については、産後の肥立が悪かったためということで共通しているようだが、晴政娘が利直の生母であるかどうかについては真っ二つに分かれている。

南部の公式的な記録としては、南部利直の生母は泉山古康娘なのだが、南部信直には、南部晴政娘を生母として扱いたくない理由があったのだろうと思う。それは南部晴政と南部信直との家督をめぐっての確執であり、命を奪われそうになった信直の晴政に対する憎悪だったのではないか。

この利直が産まれた時期、南部信直は数々の戦いの中で、南部を実質的に担っているのは自分であると言う自負の念は強かったろうと思う。しかし舅の晴政は、自分の実子に家督を継がせようとすでに決めていたのだろうと思われる。

「信直公奥方平産の事」にある、利直の誕生を祝いに、自分の実子の鶴千代を伴い出かけているのも、南部の家督は鶴千代とし、信直とその子の利直は、南部の柱石として重く遇するということをあらわそうとしたのではないか。この慶事を境に、これまでの確執を収めようとしたのではないかと思える。

南部晴政は、産まれた利直に自分の幼名「彦」の字を与え、成人してからの名前にまで「晴」の字を与えている。このことにより、晴政は南部の一族に、一族間での上下関係を確認させ、実子鶴千代を脇におくことで、家督を鶴千代とすることの布石をおいたのではないかと考える。

信直にしてみれば、この慶事におけるこの晴政の行動に対しては、その表の顔とは裏腹に、苦々しい思いを持ったことだろう。

この数ヵ月後に、正室の晴政娘は亡くなるわけだが、その数ヶ月の間、恐らく家督相続をめぐって、晴政と信直の間には、陰惨な暗闘があったと推測するのは容易なことだ。そしてその数ヶ月の間に、晴政と信直の亀裂は決定的なものになったのだろう。

正室の晴政娘が亡くなり、その戒名はなんと

『異貌清公大禅定尼』

三戸城址大綱門

となっている。当然喪主は南部信直であったろうが、この戒名には、信直の晴政に対するどす黒い憎悪が感じられる。晴政は娘に対するこの戒名をどう思ったか、葬儀は、現世の憎悪渦巻く、ビリビリした雰囲気の中で営まれたことだろう。

この後、信直は晴政の家督を継ぐことをおのずから辞し、三戸を去り田子に戻ってしまう。この6年後、1582年、南部晴政が死ぬと、南部信直は北信愛らとともに、力ずくで南部の家督の座に着く。

そして、「異貌」と戒名された正室の葬地は不明であり、晴政夫妻、その実子の晴継、その生母の供養碑もまた不明である。

信直は、その憎悪の対象になってしまった正室の晴政娘を、自分の嫡男の生母として扱うことはできるわけもない。そのため、後室である泉山古康娘を生母としたのではと推測する。

信直が晴政娘を妻とし養嗣子になったのは、12、3歳の時である。夫婦といってもままごとのようなものであったろうし、はたから見て微笑ましいものであったろう。それが長じるにつれ、信直と舅の晴政の間は険悪なものになっていく。しかし、この時代の女性としては、南部宗家の嫡女としての意識もあったに違いない。信直の正室はその間にあり、死の間際まで苦しんだに違いない。

それが信直をして、南部宗家の嫡女としての正室に「異貌…」の戒名をつけさせ、嫡男利直の生母の位置も奪ってしまったのだろうと考える。

哀れなるは信直正室、南部晴政娘である。

参考HP:「近世こもんじょ館」
http://komonjokan.net/

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