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2012/04/09

先日、各地の名木に興味をお持ちのこのサイトの読者から、東松島市の「笠松」の津波被害の状況を尋ねられた。

宮城県沿岸部の津波被害はあまりに甚大で、1年を経過して後も復興には程遠いもので、仕事で訪れるたびに胸が痛む。そのためもあり、津波被害の状況には、一定の距離をおいて対している自分を感じていた。そうでもしなければ、どうにも冷静さを保てないのだ。この「笠松」の近くの国道45号線も、震災後仕事で何度か通っているのだが、直接見ることはなかった。しかしお尋ねがあり、きちんとした返事もできなかったので、仕事の途中で立ち寄ってみた。

この「笠松」の地は、海岸から約2kmの地点にあるのだが、大津波は海岸の松林をすべてなぎ倒し、近くの松島航空隊基地を襲い戦闘機を押し流し、周辺の田をすべて飲み込み、JR仙石線と国道45号線も越えた。「笠松」ももちろん津波に襲われたが、その威力は減衰していたのだろう、海岸線の松林とは異なり、根まで持ち上げられなぎ倒されることはなかったようだ。

震災からしばらくは、この地は一面がれきに覆われ、それが取り除かれたのは最近のことだ。今年は何とか稲の作付けができるようで、その田地の中に「笠松」は何とか立っている。

江戸時代には、石巻への街道が「笠松」の地を通っており、かつては松並木が並んでいた内の最後の一本であり、もしかすると松尾芭蕉が「踏み迷った地」かもしれない。

近くで見ると、素人目ではあるが、大枝の数本は枯死してしまったものの他の枝には緑の松葉をつけており、樹勢は回復しているように見える。塩水を被りながらも、何とか生き延びたようだ。この「笠松」が、今回の千年に1度の災害に耐え、このまま無事生き延びることが出来れば、今後さらに千年の長きに渡り、今回の震災の証人として残れるかも知れない。

この「笠松」の南に広がる野蒜の海岸に、震災翌日には、津波に流された多くの犠牲者が打ち上げられた。この地から海岸に向って手を合わせた。