2011/03/30

 

前日、夜中にガソリンスタンドに並び、車に給油し、さらに朝一番に慰問品を購入するためにスーパーマーケットに並んだ。店内にはまだろくなものは並んではいないが、それでも被災者にとってはいかばかりかの慰めにはなるだろうと片っ端から買い求め、石巻、女川に向かった。

仙台から国道45号線を東へ走るとまもなく、多賀城付近からは、国道を走っていたのだろう乗用車が、津波に押し流され、国道沿いの建物に突っ込んでおり、また道路上にもいたるところにその骸をさらしている。乗っていた方々はどうなったのか、知る術もない。

途中からこの惨状に怖気づき、国道から田畑の広がるわき道を通り、山沿いの県道に抜けた。それでも途中の田畑には、津波で運ばれた瓦礫が一面に広がっている。

県道から東松島市に抜けると、そこにも津波の惨状が広がっている。東松島市から石巻の市街地に入ると、国道沿いにうず高く瓦礫が積み上げられ、沿道の電柱は折れ曲がり、建物は崩れ、かつては華やかな商店が並ぶ町並みで、無事なものはほとんど無い。しかしこれとて、津波の惨状は序の口だった。

海沿いの道を極力避けながらさらに進み、市の中心部を抜けると、そこには茫漠とした瓦礫の山が広がっている。涙があふれてくる。涙を手の甲でぬぐいながら市街地を抜けると、女川町までのほんのわずかの間、道はゆがみ波打ってはいたが、見知った、震災前と変わらない海が広がっている。気を取り直し女川の町に入っていった。

崩れながらもかろうじて残っているかつての女川の町はずれの坂道を上りきると、そこからはるかに見える女川港まで、一面瓦礫の荒野が広がっていた。涙があふれて来る。時折みかける自衛隊の方々が開いてくれたのだろう砂塵の道は、倒れた鉄筋コンクリートの建物の残骸をくぐるように迂回しながら、町の中心部に続いている。

すでにそこは私の見知った町ではなかった。廃墟と化した町は、私が以前訪れたことのある鉱山の町などの廃墟とはまた違い、生々しい現実を色濃く残す、この地の、理不尽に亡くなった多くの方々の霊が漂っているような廃墟だった。

すでにどの場所かも定かではない町の中心部に立ち、涙をぬぐいながら瓦礫の中から見知った建物の痕跡を探した。

この町の高台には、5階建ての文化センターがあり、なんとかそれを見つけることが出来た。高台でもあり、堅固な鉄筋コンクリート建てであった。その建物が恐らくは周辺の住民の避難所になっているものと思っていたのだが、その建物は瓦礫の中にかろうじて立ってはいたが、最上階の窓も破れ、無残な姿をさらしており、人影はまるでない。

途方にくれていると、一人の初老のご婦人が通りがかり、このご婦人に避難所を教えていただいた。この文化センターが避難所になっていると思っていたことを告げると、このご婦人は、ご夫妻でこの建物に逃げ込んだという。しかし大津波に襲われ、ご自分は屋上にかろうじて逃げたが、ご主人は津波にさらわれたという。嗚咽するそのご婦人を慰める言葉も無く、一緒に涙を流すしか私には出来なかった。

ご婦人と別れ、教えていただいた避難所に出向いた。避難所の外では子どもたちが無邪気に群れて遊んでいる。避難所の方に、探している方を尋ねると、無事であることは確認できたものの、知人のつてを頼ってこの町を離れたらしいと言うことで、その行き先はわからなかった。とりあえず無事らしい。もうお一人の住まいは、この町の高台に位置していたため、津波はかぶらなかったのではと思っていたのだが、聞けばその地域も壊滅したらしい。

この方からは、震災の前日の消印の郵便物が、18日間かかって昨日手元に届いていた。犠牲者からの郵便物にはしたくなかった。すぐにやはり高台にあった仕事先に向かった。仕事先の地域は、かろうじて津波は被らなかったようだが、それでもその仕事先は硬く閉じられ、人の気配はなかった。隣の方に消息を尋ねると、そこは奥さんのご実家で、ご無事であることが確認できとりあえず安堵した。その後、石巻の知人を避難所に慰問し岐路についた。

この日訪れた石巻の町も女川の町も、そしてその地域の方々も、その被害の大きさを考えれば、希望を持たなければと思いつつも、物理的には希望を見出すことははなはだ難しい。それでも、石巻の避難所では、高校生らしいグループの一人がトランペットを吹き鳴らし無邪気に群れていた。この壊滅的な被害の中に希望があるとすれば、子供たちの何の根拠もない無邪気さの中にあるのかもしれないと思った。

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