平藩の最後の藩主は安藤対馬守信正で、井伊直弼が桜田門外で暗殺された後を受けて、老中として公武合体策を進め、諸外国との交渉にあたった。しかし文久2年(1862)坂下門で水戸藩士らに襲撃され傷を負い、老中職を辞任した。

慶応4年(1868年)戊辰戦争においては、平藩は奥羽越列藩同盟に属していた。薩摩、佐土原、大村の西軍三藩が平潟港に上陸、同盟軍は奪還に向かったが敗れ、途中の泉館、湯長谷館も破られた。

7月13日、西軍は平城を総攻撃、守る列藩同盟側の装備は旧式で、各城門は次々に破られ、同盟軍は城に火を放ち敗走した。

安藤信正とその家族らは、わずかな家臣とともに、四倉の山中に分け入った。このとき、信正のまだ幼い姫は、愛猫を連れていたが、道はけわしく、猫鳴山より先は連れて行くことができず、姫は説得され、泣く泣く愛猫を捨てていった。

猫鳴山の頂上には「猫石」と呼ばれる石があり、鳴きながら姫を探し山中をさまよった猫は、ついに力尽き石になったと伝えられる。

主従は、赤井岳より川前にぬけ、桶売を経て川内村に逃れた。しかしその途中、逃避行の疲れと愛猫を捨ててきた深い悲しみの中で、姫は命を落とした。

姫の霊魂は、この地から猫鳴山に戻り、きっと愛猫に出会えただろう。

一行は長福寺で4泊し姫君の供養を行い、その後相馬から仙台へと逃れた。

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