英国の女性旅行家イザベラ・バードは、明治維新からまだ間もない明治11年(1878)、東北地方から北海道にかけて旅行をし、紀行文を残した。ここではその内の「会津」を紹介する。

イザベラは、6月26日、現在の国道121号線のルートを通り山王峠を超えて会津に入った。

■山王峠では

「長い山路を登ると、高さ二五〇〇フィートの峠の頂上に出た。そこは三〇フィートも幅のない突き出た山の端で、 山々や峡谷のすぱらしい眺めがあった。入り組んだ谷川の流れは、一つとなって烈しい奔流となっていた。 その流れに沿って数時間ほど進むと、川は広くなって静かな流れとなり、 かなり大きい水田の中をのろのろと流れていた。地図を見ると、この地方は空白になっているが、 私の考えでは、さきに越えた峠は分水界であって、それから先の川は、太平洋に向かうのではなく、 日本海に注ぐのであると思われた。この推量は当たっていた。」

山王峠は分水嶺であると共に、関東と東北の文化圏を分ける大きな峠でもあった。 会津西街道時代の山王峠は、会津三方道路事業による旧国道の山王峠から少し西側に位置していたようである。 江戸時代は参勤交代の隊列も通ったことだろう。戊辰戦争ではこの峠で激戦が繰り広げられたことだろう。 イザベラ・バードが持っていた地図で「空白」になっていることに象徴されるように、まさに山王峠から北が「Unbeaten Tracks」といえるだろう。 糸沢(現在の道の駅「たじま」近く)にあった山王茶屋は戊辰戦争で焼失したが、1869年(明治2年)に再建されたという。 イザベラ・バードも立ち寄ったかもしれない。なお、山王茶屋の建物は南会津町の奥会津博物館に移築され古民家レストランとして活用されている。

 

■川島では

「糸沢では、借り出した馬がひどく躓くので、最後の宿場間を歩いて川島に着いた。ここは五十七戸のみじめな村であった。 私は疲れきって、それ以上は進めなかったので、やむなく藤原のときよりもずっとひどい設備の宿に泊まることになった。(中略) 田植えが終わると二日間の休日がある。そのときには、米作り農家の神である稲荷に多くの供物があげられる。 人々はお祭り騒ぎをして、一晩中飲んで浮かれていた。社の太鼓の音や、太鼓をたたきながら歩きまわる音が続いて、 私は眠ることができなかった。」

徳川幕府によって長年整備された日光を通った後だけに、その落差に驚いただろう。 田植えの後のお祭り騒ぎとは、日本各地の農村で見られる「さなぶり」のお祭りだろうか。 糸沢から川島付近では七ヶ岳を望める。七ヶ岳は会津鉄道の駅名にもなっている。 山王峠から2kmほど北進すると貝鳴山の三角形の山容が印象深い。

川島を発ち、田島、長野を通り、大内宿に一泊。

 

■田島、長野では

「私たちは田島で馬をかえた。ここは、昔、大名が住んでいたところで、日本の町としてはたいそう美しい。 この町は下駄、素焼、粗製の漆器や龍を生産し、輸出する。(中略) 水田を通りすぎると、荒海川という大きな川に出た。(中略)そして汚いが勤勉な住民のあふれている汚い村をいくつか通りすぎて、 平底船で川を渡った。(中略)この地方はまことに美しかった。日を経るごとに景色は良くなり、見晴らしは広々となった。 山頂まで森林におおわれた尖った山々が遠くまで連なって見えた。」

田島を過ぎて長野か落合、沢田あたりで大川を渡ったのだろう。 この付近で見える山は斎藤山とその奥に裏那須の山々(旭岳、三倉山、三本槍岳)だろう。

 

■大内では

「私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。 村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。」

郵便局、運送所という特徴から、「美濃屋」だろうか。近くの湯野上温泉駅は駅舎としては珍しい茅葺屋根。大内宿の宿場の雰囲気を感じさせる。 「山にかこまれた」というのは小野岳だろう。

大内宿を発ち、市川、高田を通り、坂下街道(県道22号線・会津坂下会津高田線)を北進し、坂下に一泊。 市川峠は現在の地図では市野峠となっている。大内会津高田線(県道330号線)を北進。

 

■市川(市野)では

「私は翌朝早く出発し、噴火口状の凹地の中にある追分という小さな美しい湖の傍を通り、 それから雄大な市川峠を登った。すばらしい騎馬旅行であった。 道は、ご丁寧にも本街道と呼ばれるものであったが、私たちはその道をわきにそれて、ひどい山路に入った。(中略) 峠の頂上は、他の多くの場合と同じく、狭い尾根になっている。山路は、山の反対側に下ると、 ものすごい峡谷の中に急に下りてゆく。私たちはその峡谷に沿って一マイルほど下って行った。(中略) 山を下る終わり近くで、私の雌馬は反抗して手に負えなくなり、私を乗せたまま、見苦しい姿で早駆けをして、市川という村に入った。 ここは美しい場所にあるが、傍は切り立った崖となっている。村の中央に、すばらしい飛瀑があり、 そのしぶきで村中がまったく湿気に侵されている。(後略)」

沢沿いの道で、6月下旬の梅雨時ということもあり、湿気が凄かったのだろう。市野沢だろうか。 大内宿からだと大内峠を越える会津西街道の本街道を通るのが一般的だと思われるが、あえて市川峠を越えたのはなぜだろうか。

 

■高田では

「杉の並木道となり、金色のりっぱな仏寺が二つ見えてきたので、かなり重要な町に近づいてきたことが分った。 高田はまさにそのような町である。絹や縄や人参の相当大きな取引きをしている大きな町で、 県の高官たちの一人の邸宅がある。街は一マイルも続き、どの家も商店となっている。」

「金色のりっぱな仏寺が二つ」とは、 舘泉寺と太子堂だろうか?或いは、現在の県道330号線(大内会津高田線)より1kmほど東側のルートを通った場合だが、福生寺観音堂と常楽寺観音堂あたりだろうか? 高田から坂下までは、現在の県道22号線(会津坂下会津高田線)付近を通った可能性が高いが、 西側の県道365号線(赤留塔寺線)付近を通った可能性も捨てきれない。

 

■坂下では

「ここは人口五千の商業の町である。まさに水田湿地帯の中にあって、みすぼらしく、汚く、じめじめと湿っぽい。(中略) 干魚をつめた俵がいっぱい入っている小屋に入った。干魚からでる臭いは強烈であった。(中略) ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまでは ゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここで私は、 一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群衆にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。(中略) 彼らはお互いに親切であり、礼儀正しい。それは見ていてもたいへん気持ちがよい。」

干魚とは、身欠き鰊や鰊の山椒漬け、棒タラなどだろうか。肉食が当たり前の彼女にとって、味噌汁と漬物、塩魚などの食事は辛かったようである。 幼いころから食べ慣れた日本人で嫌いな人は少ないだろうが、英国女性がその匂いに抵抗があるのは当然。 しかし、清貧な会津気質をもった坂下の人々のことをイザベラ・バードも称えている。

 

■鐘撞堂峠では

「ようやく一時間してこの不健康な沼沢地を通り越し、それからは山また山の旅である。 道路はひどいもので、辷りやすく、私の馬は数回も辷って倒れた。」

坂下と片門の間で「山また山」というと鐘撞堂峠と思われる。 越後街道は1611年(慶長16年)の会津地震により高寺山塊の勝負沢付近が被害を受け通行困難になったことから、鐘撞堂峠と束松峠を通るルートに変更になったそうである。 気多宮の追分で左(直進)が柳津路(沼田街道)、右が越後路(鐘撞堂峠)に分かれる。

 

■片門では

「私たちは阿賀野川という大きな川にかけてある橋をわたったが、こんなひどい道路にこんなりっぱな橋があるとは驚くべきことである。 これは十二隻の大きな平底船からなる橋で、どの船も編んだ藤蔓の丈夫な綱に結んである。 だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が十二フィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている。 伊藤は落馬したために一時間おくれたので、私はその間、片門という部落で、米俵の上に腰を下ろしていた。 この部落は、阿賀野川の上流の山手で、急な屋根の家々がごたごたと集まったところである。」

片門と舟渡の間にあった平底船の橋と思われる。現在では片門橋という名前の新しくて大きな橋が架かっている。 現在ではこの付近の川の名称は只見川と記載されているが、阿賀川(阿賀野川)との合流点に近い。

 

■山岳地帯(束松峠、鳥屋山塊)では

「こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、 山を越えるたびに視界は壮大なものとなってきた。今や会津山塊の高峰に近づいており、 二つの峰をもつ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、 広大な雪原と雪の積もっている峡谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。 これらの峰は、岩石を霧出させているものもあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色におおわれている低い山山の上に立って、 美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私が考えるところでは、 ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった。」

片門と野沢の間の山岳地帯というと束松峠と鳥屋山だろう。 イザベラ・バードはこの付近から見る会津の山々を絶賛している。 糸谷山(イトヤサン)とは、飯豊山(イイデサン、イイトヨサン)だろう。 福島の山々にて、磐梯山や明神岳も詳しい。 磐梯山の小磐梯が水蒸気爆発で大規模な山体崩壊を起こしたのは、10年後の1888年(明治21年)である。 イザベラ・バードは噴火前の磐梯山の姿を西側から見たことになる。

飯豊連峰(鳥屋山から) 吾妻連峰(鳥屋山から) 磐梯山(鳥屋山から)

 

■野沢では

「ただ一人野沢という小さな町に着くと、人々は好奇心をもって集まってきた。 ここで休息をしてから、私たちは山腹に沿って三マイルほど歩いたが、たいそう愉快であった。 下を流れる急流の向かい側には、すばらしい灰色の断崖がそそり立ち金色の夕陽の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった。」

会津の巨峰とは飯豊連峰だろうが、すばらしい灰色の断崖とはどの辺だろうか。 現在、野沢から野尻の間には「すばらしい」という程の「灰色の断崖」は見られないが、 野沢の3~4kmほど手前の大畑と甲石の間の不動川沿いに大変見事な「灰色の断崖」が続く。 イザベラの記述した行程と前後するが、もしかしたらここかもしれない。

 

■野尻では

「日暮れ時に野尻という美しい村に到着した。この村は、水田の谷間のはずれにあった。 夕方ではあったが、私は穴の中のような宿で日曜日を過ごしたくはなかった。 一五○○フィートほど高い山の端に一軒家が見えたので、聞いてみると茶屋であることが分かったから、そこまで行くことにした。 うねうねと続く山路を登るのに四十五分もかかった。この道によって難所の峠を越えるのである。」

野尻地区のシンボル的存在の須刈岳のこんもりとした姿も記憶に残っただろう。

 

■車峠では

「会津の山々の雪景色はすばらしいし、ここには他に二軒しかないから、 群集にわずらわされることなく自由に散歩できるからである。(中略) この地方は見たところ美しくもあり、また同時に繁栄しているようである。 山麓に静かに横たわっている野尻という尖り屋根の並んでいる村に、ひどい貧困が存在しようとは、 だれも考えないであろう。しかし、ちょうど下の杉の木に下がっている二本の麻縄が、 貧乏のために大家族を養うことができず二日前に首をくくった一人の老人の、悲しい物語を語っている。 宿の女主人と伊藤は、幼い子どもたちをかかえた男が老齢であったり病身であったりして働けなると、自殺することが多い、と私に話してくれた。」

イザベラ・バードも会津の山々の美しさを絶賛している。6月下旬だと新緑の中に飯豊連峰の残雪がまだ白く輝いていただろう。 代替フロンや二酸化炭素の排出で、地球温暖化が急速なスピードで進んでいる。百年後の会津で、この美しい光景が残っているだろうか。 野尻の集落は農業と舟運業で繁栄している豊かな村だが、厳しい側面もあったことが窺える。

会津地方での最終泊となる6月30日(日)に、会津地方の行程を振り返って、車峠の宿屋で次のように手紙に書いている。

「つらかった六日間の旅行を終えて、山の静かな場所で安息の日を迎えることができるとは、 なんと楽しいことであろうか。山と峠、谷間と水田、次に森林と水田、こんどは村落と水田。 貧困、勤勉、不潔、こわれた寺、倒れている仏像、藁沓をはいた駄馬の列。長い灰色の短調な 町並み、静かにじっと見つめている群衆・・・これらが、私の思い出の中に奇妙なごったまぜと なって浮かび上がってきた。(後略)」

当時の会津地方は衛生状態が悪く、蚤やシラミを原因とする皮膚病が流行していたことも記されている。 明治維新(戊辰戦争)や廃仏毀釈運動で荒廃した会津地方が目に浮かび、何とも複雑な気持ちになる。 現在の豊かで美しい会津は様々な困難に耐えながら努力された先人達の多くの苦労の賜物である。

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