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初版20150115 72view

戊辰戦争時の宮古湾海戦では、東郷平八郎や土方歳三らが、海戦においての、サムライの道をあらわした。その後、年月は流れ、この地に生まれた海のサムライが、太平洋で静かに潔く、サムライとして戦い、波の下に沈んだ。ここでの話は、太平洋戦争での史実をもとにし、推測を交えてのものである。

伊12潜は、昭和19年(1944)10月、アメリカ西海岸に向けて出撃した。乗組員は117人、艦長は宮古市出身の工藤兼男大佐だった。伊12潜は、この年の5月に完成したばかりの、全長113.7メートル、の大型潜水艦だった。

伊12潜は、長い航続距離を生かして、東太平洋海域で敵補給路のかく乱を目的に呉軍港を出港した。この時期、すでに戦局は悪化の一途をたどり、この海域で行動する日本の潜水艦はもはや伊12潜だけだった。伊12潜は、関門海峡、日本海を経て、視界不良のため函館沖に仮泊した後、一路米西岸へと向かった。

この時期の日本は、すでに太平洋の制空権も制海権も失っており、周囲には味方の影は全くなく、重大な事項以外は、無線も使うことはできなかった。策敵も、広い海原をただひたすら進み、双眼鏡を使ってのものだった。

10月30日、アメリカの輸送船団を発見、直ちに潜望鏡深度に潜航し魚雷を放った。すぐさまもう一隻の輸送船にも魚雷を放ち急速潜航した。すでに護衛の駆逐艦が向かってきているはずで、それ以上は無理だった。

輸送船への魚雷の命中音を聞きながら、それを喜ぶものはいなかった。無線の連絡もとれないはるか彼方の味方よりも、広い太平洋上で出会った輸送船団は、敵とはいえ、なにがしかの親近感があった。乗組員の多くは、口にこそ出さないが、撃沈した敵輸送船の乗組員の無事を祈り、戦場を離脱した。

11月12日、伊12潜は、彼方の水平線上を進む1隻の大型帆船を発見した。パミール号だった。パミール号は、第一次世界大戦時にドイツのハンブルグで建造された、鋼製4本マストのバーク型帆船で、この時期には、主にニュージーランドとアメリカ西岸の間を、戦時物資を運ぶ輸送船として使用されていた。周囲に護衛艦もなく単独の航行であり、まさに絶好の獲物だった。

伊12潜は潜望鏡深度に潜航しパミール号に接近した。武装らしい武装はなく、戦時下には似合わない優美な姿だった。艦長は浮上を命じ、砲撃戦の準備を命じた。

パミール号の乗組員は、目の前に突然日本の潜水艦が浮上し、ピタリと砲口を向けられ、戦う術もなく、誰しも絶体絶命と覚悟した。潜水艦の艦橋には双眼鏡をのぞき命令を与えている艦長らしい人物が見えた。しばらく凍り付くような時間が過ぎた後、潜水艦から信号が発せられた。それは「本艦は貴船の美しさを葬るに忍びず、安全なる航海を祈る」とあり、潜水艦は静かに潜航し立ち去った。

伊12潜はその後、輸送艦1隻を撃沈し、敵艦を求めながら、1月2日、大胆にもパールハーバーを臨める地まで進出した。湾から出てくる敵艦を待ち構えたが、折悪しく敵艦は現れず日は暮れた。潜望鏡から見る夜のホノルルは深夜にも関わらず不夜城のごとく明かりに包まれていた。この時期本土日本は、各地でB29による空襲があり、多くの日本人は明かりを落として、息を潜めて新年を迎えているはずだった。

その明かりの中に、ひときわ明るく飾り立てられた観覧車が見えた。艦長は浮上を命じ、砲撃戦を準備させた。目標を彼方の明かりに包まれた観覧車に合わせ、数発の砲弾を撃ち込んだ。観覧車周辺が混乱に陥っているのが、艦上からも伺え、観覧車一帯の明かりが消えた。

その後の伊12潜の消息は不明であるが、1月5日、浮上しているところをアメリカの哨戒機に発見され、撃沈されたと考えられる。