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初版20160909 1000view

宮城県亘理町の山深い地に、隠されたようにひっそりと、原田甲斐の母の慶月院の墓がある。

慶月院は、茂庭綱元と、豊臣秀吉の愛妾であった香の前の娘として生まれ、名前は津多と云う。豊臣秀吉の愛妾だった香の前は、文禄3年(1594)、豊臣秀吉が、朝鮮半島に出兵した伊達政宗の留守居役として名護屋城にあった茂庭綱元と賭け碁をし、勝った綱元に香の前を与えたという。

綱元は普段から秀吉に気に入られ厚遇されており、綱元と秀吉の親密な関係は政宗の疑念を招き、文禄4年(1595)に綱元は政宗から強制的に隠居を命じられ、これに憤った綱元は伊達家から出奔した。その後帰参したときに、綱元は政宗に香の前を差し出したともされ、そのため、津多と弟の又治郎は、当時から政宗の落胤とささやかれていた。

津多は長じて、仙台藩の宿老で船岡城主の原田宗資の妻となり、宗輔を生んだ。しかし宗輔が5歳、津多が26歳の時に夫と死別し、その後は慶月院と名乗り、幼くして当主となった宗輔を育てながら原田家を守った。

津多は、伊達政宗の落胤であるとする思いが非常に強かったようで、子の宗輔の訓育に当たっては、政宗の孫として、伊達家の柱石になるべく厳しく育てたようだ。しかしその宗輔が寛文事件を起こし、逆臣となってしまった。

寛文11年3月(1671)、仙台藩内の騒動を解決するために、大老酒井忠清邸に召喚され、宗輔はその場で伊達安芸に斬りかかり斬殺し、自身も柴田外記と斬りあい死亡し、柴田外記もまた死亡した。

事件後、原田家の男子は養子に出された者や乳幼児全てが、切腹、斬首の死罪となり、一家断絶となった。女子もお預けの身となる厳しい処罰が下され、慶月院は、亘理伊達家の伊達基実に預けられた。伊達政宗の落胤であることを自認し、その血をひくものとして誇りをもって育てた我が子が、逆臣の汚名を着せられ、一家断絶になるなど、慶月院にとって信じられるものではなかっただろう。

慶月院は、我が子宗輔の正義を信じ、「我が子が何の不義ぞ」と舌を噛み切って死のうとしたが、高齢で歯がなかったため果たせず、その後50余日の間食を絶ち、寛文11年(1671)7月、亘理伊達屋敷で絶食死したと云われている。74歳であった。

当時は、逆臣に連なるものとして正式に弔いもできないため内密に葬られ、墓石は立てられず、この自然石を墓印にしたものと思われる。また左側の地蔵尊は、その後供養として立てられたものと伝えられる。