伊達輝宗は、政宗やその若い家臣らの相馬氏との戦を見て、隠居を決意したとされる。またこの当時、最上義光の妹で、輝宗の正室の義姫は、次男の小次郎を溺愛し、義姫はじめ、輝宗の後継を小次郎と考える者も少なくなかった。天文の乱の後始末に奔走してきた輝宗にとって、家中の争乱は何が何でも避けたい事であり、それを避ける意味での早い時期の隠居だったとも云われる。

天正12年(1584)10月、輝宗は、嫡男の政宗に家督を相続し隠居した。この早すぎる政宗の家督相続に対して、小次郎派の重臣はもとより、輝宗に付き従ってきた重臣らも、政宗とその若い幕閣たちに注がれる視線は温かいものばかりではなかった。

この当時、現在の福島県仙道地域は混沌としていた。四本松城の名族石橋氏は、大内定綱により追われ、定綱が塩松一帯を支配していた。大内氏は、田村氏の旗下に属し、伊達輝宗が小斎城を攻略した際には、輝宗の陣に参上して伊達傘下に入り、以降は対相馬戦に度々従軍していた。しかし陰では二本松の畠山氏や会津の葦名氏と結ぶなど、その去就は定かではなく、葦名盛隆の支援を受けて田村清顕を破り独立を果たした。天正12年(1584)に、政宗が伊達氏の家督を継ぐと、定綱は米沢に祝賀に出向き、引き続き伊達氏への奉公を表明し、今後は米沢に居を移して伊達氏に従属したいと申し出た。定綱の小浜塩松は、仙道の中央にあり、念願の仙道制覇への大きな足掛かりになる。政宗はこの申し出を喜び、定綱に米沢城下において屋敷を与え、これを丁重に遇した。定綱もこれに対して謝礼を述べ、そのまま米沢で越年した。

天正13年(1585)正月、定綱は諸事始末を終え、改めて戻ってくると言い残し小浜城へ帰った。しかし、定綱はそのまま米沢に戻ることはなく、手に入れた塩松の独立を保持するために、畠山氏、佐竹氏、葦名氏らと結び、伊達氏と対峙する道を選んだ。不審に思った政宗は小浜へ使者を差し向けその真意を質すと、定綱の答えは「伊達に服するつもりなど毛頭無い」というものだった。

政宗にとってこれは許しがたいことだった。この時期、若き伊達の当主に対し、家中の重臣や仙道地域の大小名たちはいわば「値踏み」をしていた。この対応を誤れば、様子見をしている仙道地域の大小名たちが離反してしまう恐れがあり、家中にくすぶる小次郎擁立の動きが表面化する懸念もあった。

政宗は果敢に動いた。天正13年(1585)8月、米沢から、小浜の大内定綱攻撃のため軍を発した。これに対し定綱は、二本松の畠山氏、会津黒川の葦名氏の助勢を受けて小浜城に籠った。政宗は、川俣方面から塩松に攻め入り、大内氏の支城である小手森城を囲んだ。

小手森城は、円錐形をした独立丘の山頂部に築かれた山城だったが、小規模ではあるが、北の尾根筋に数段の曲輪を設け、四方を急斜面で囲まれていた。小手森勢は女子供まで領民を城内に入れ、合わせて500程で、徹底抗戦の構えを見せていた。もちろんこれは、二本松勢や会津勢が後詰にあることへの過信だったろう。伊達勢からは、「抗すれば女子供、牛馬の果てまで撫で斬りにする」旨の矢文が何度か打たれていたが、反応はなかった。

小浜の大内定綱は、会津勢、二本松勢とともに城を出て小手森城を包囲する伊達勢に打ちかかった。しかしこれを、伊達勢の旗本組と鉄砲隊600ほどが迎え撃ち、300近くが討ちとられ、定綱もその夜のうちに小浜城に戻った。

当時、奥羽地方では、鉄砲を前面に出しての戦いと言うのはまだ珍しく、小手森勢にすれば、伊達の鉄砲隊により味方が撃退された衝撃は大きかったものと思われ、小手森勢の戦意は一気に失われたようだ。2日後に、石川某が伊達の陣所を訪れた。

石川は、「城兵の小浜城への退散を認めれば城は明け渡す」という。しかし政宗にとって飲めないものだった。城兵を無傷で小浜城に入れれば、防備を固められ、二本松勢や会津勢の出方によっては、そのままずるずると和議に持ち込まれる可能性が大きかった。これまでもそのような形で、仙道の諸勢力は延命を図り、結果として諸勢力が入り乱れての状況が作られていた。機会を逃さず、一気に片を付ける必要があった。伊達の返答は、「降伏するならば、城を出ることを認めるが、抗するのであれば撫で斬りにいたす」とのものだった。

戦意を失った小手森城は、城を脱しようとするものと、それを遮ろうとする者の間で大混乱となった。そのような中での8月27日、おりからの強風の中、小手森城に火が放たれ、総攻撃がかけられた。火は城の方々に広がり、激しい銃声の中、城に残っていた者は、男女はいうに及ばず、牛馬の類迄も次々と撫で斬りにされていったという。

この伊達政宗が行った撫で斬りは、伊達政宗を侮っていた勢力に、衝撃をもって喧伝されていった。この苛烈な落城劇を知った近くの二城は、その夜のうちに城を焼き払い引き退いていった。また大内定綱も、この政宗の怒りに恐怖し、頼みの二本松勢や会津勢から十分な救援も得られぬまま、小浜城に火を放ち二本松へ落ち延びた。

政宗は小浜城へ無血入城し、宮森城には政宗の父の輝宗が入った。政宗は天正14年(1586)8月までの約1年間この城に滞在したが、この間、政宗の父輝宗が畠山義継に拉致殺害される事件が起き、小浜城は二本松畠山氏攻撃の拠点となった。

この小手森城の「撫で斬り」は、周辺の大名や住民にも強烈なインパクトを残し、それまで幾重にも及ぶ姻戚関係の中で、互いに決定的なダメージを与えられずにいた南奥羽の秩序がこれにより崩壊した。

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