僕の住む町の多くは瓦礫の山になってしまった。

幸い、僕の家は半壊状態だったが流されず、家族もみな無事だった。

地震の翌日からはとりあえず家族が住めるように片付けをして、3日目からはお父さんと僕は手分けして、親戚や友人の消息を尋ねに町へ出た。

道はがれきにふさがれ歩くこともままならず、それでも思い出となってしまった町の様子を思い起こしながら進んでいった。町のあちらこちらで、瓦礫を手でどけながら家族を探しているのだろう人たちがいたが、その作業はなかなかはかどらないようだった。

途中、小さなパワーショベルを動かしている土建屋のおやじがいた。その家の家族と一緒に瓦礫をどかしていた。小さいとはいえそこはさすがにパワーショベルだ、人の手でどけられない家の梁をどかした。家の人が「いたぞ!ばばちゃんだ」その家のおばあさんが見つかったようで、その家の人は瓦礫の下に飛び込むようにもぐりこんだ。

みんなで、ようやくの思いでおばあさんを引っ張り出した。すでになくなっており、体は泥だらけで着ているものはぼろぼろだった。土建屋のおやじは、パワーショベルの座席から、飲料水のペットボトルを持ってきて、その家の人に「これで顔だけでもきれいにしてやらいん」と言って差し出した。首にまいた汚いタオルで、寒い日なのにやたら顔の汗をぬぐっていた。今思えば、泣いていたんだと思う。

家の人は、おやじに手を合わせてお礼を言っていたが、「ばあちゃん早くきれいにしてやらいん」とだけ言って、おばあさんに手を合わせ、道の瓦礫をどけながらごろごろとパワーショベルで進んでいった。

最寄の避難所に行くと、友人はとにかく無事だった。何人かの学校の友達とも会うことが出来た。その避難所でパワーショベルのおやじの話をすると何人かがそのおやじを知っていた。

この町の小さな土建屋のおやじで、家も事務所も完全に流され、事務所にいた奥さんも行方不明だという。昨日からかろうじて残ったパワーショベルを動かして瓦礫を片付けていると云う。夜は、奥さんが帰ってくるかもしれないと、流された事務所のところで、パワーショベルの中で寝泊りしているらしい。

その夜、家に帰りその話を母にすると、その親父は人付き合いが悪かったらしく、あまり良くは思っていなかったようだが、それでも翌朝「これ親父さんに持っていってあげな」と、まだ温かい握り飯と、ポットに入れた味噌汁を持たせてくれた。

僕は、すぐにあのおやじの事務所があったところに行った。おやじはパワーショベルの点検をしているようだった。「これ、母ちゃんがよこした」といって握り飯とポットを差し出した。一瞬けげんな顔をしたが、手を合わせて受け取りうまそうに握り飯にかぶりついた。

おやじが言うには、もう油がなくて、パワーショベルを動かせるのもこの日が最後だという。おやじは握り飯を食べると、またパワーショベルでごろごろとがれきの町に入っていった。

僕は、友達のいる避難所に行ってこのことを話した。友達は、「ここにはいっぺー人がいるから、なんとかなるかもしんねー、話してみるべ」と言って、避難所のみんなの前で大きな声で訳を話した。

すると、

「浜に、自衛隊の基地のドラム缶がいっぺーながれついているぞ」「おれのとこの軽トラまだ動くから運ぶべ」

「しかし、自衛隊のもの勝手に持ってきたらまずいべ」

「かまね、かまね、こんなときだ」

「区長さんに話通して後からでも許可取ればいいべ」

僕は、いままでこれほど町の大人たちが頼もしく思えたことはなかった。大人たちは、すぐに手分けして動き始めた。

翌日、どうなったか気になって、がれきの町に向かった。するとそこには2、30人の人たちが、パワーショベルを中心に動き回っていた。がれきの下からは次々と行方不明者が見つかった。昨日はうれしかったのだけど、やはり涙が出てくる。おやじも同じなんだろう、きたないタオルでやたら顔をふきまくっていた。

その2、3日後に、自衛隊の救援隊が重機とともに町に来て、瓦礫の片付けは進み始めた。その後あのパワーショベルのおやじは、非難住宅の建設現場で見かけた。やはり、あの小さなパワーショベルをごろごろ動かしていた。

僕は、次の年工業高校の土木科に合格した。

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